つういっぱいの信心、つういっぱいの辛抱


昭和五十四年二月二十二日 朝の御理解

御理解 第八十八節 「昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人にみせぬようにして家を治めよというこことである」

 今年は豊年万作だと。万作のおかげ。
 これは「今年しゃ万作 穂に穂が咲いて」という歌の文句じゃないけれど申します。
 私は、人が成程信心しなさるからおかげを頂きなさるなあと言うおかげというのは、只万作のおかげを頂いたという程度のおかげでは皆が、言うなら感心しないね。それこそ、穂に穂が咲いたというような今日の八十八節ですね。只広がるという事じゃなくて。広がりに広がっていくというおかげを頂いた時に、成程神様のおかげ、言うならば金光様の御信心の一つの意欲というようなものを世に示していけれると思うんですね。
 普通一般では、まあ言うならば十のおかげが最高のおかげとするならば、その上に十二分というおかげがついた時に、やはり皆が目を見張るようなおかげ、成程神様じゃなあ、成程金光さまじゃなあというおかげになってくる、そういうおかげを頂きたいですね。


 昨日は鞍手の方から、朝のうち柴田さんから電話がかかりました。お礼に出たいと思うんですけども、新しくお参りをしたいという方もおられますから、今日は七名おかげを頂きます。五名のに二名オーバーするわけです。それでどうぞよろしくお願いしますと言うて。どういうふうに乗って見えたかは知りませんけれども、大の大人ばっかりが言うなら七名参拝をして見えました。もう本当に一つの勢いと言うか本当に生き生きとしたおかげをうけておられます。
 その中にこの人はひとっつも、参ってくるけど信心がわからん。わからんはずじゃろうこういう難儀をかかえておるのだから、なかなかちょっとやそっとでお話が、もう苦しい事でいっぱいなんだから、やっぱり教えが入っていかんと言うのも無理のないことだと思うておりましたが、もうそうですね数えて十回位お参りになったでしょうか。その方も一緒に参って来てました。人間関係の事でもうこれ以上の辛抱は出けん、これはもう普通から言うたらこらえる事は出来まいと思うような難儀をかかえておられるような人です。ところが昨日はにこにこしてからここへ見えて、「親先生、もう教えの素晴らしい事にはおそれいります」とこう言う。「はあ そうですか、どういう事を行じていますか」と言うたら、「黙って治める」という事。「これはもう、こんな素晴らしい働きが起こって来るとは思いませんでした。これからもこれを行じていく限り、必ずこの難儀な問題がおかげになるでしょう。しかもそれが私一家ではなくて、私の方の里の家にまでその働きを感じます」と言うて、いろいろとおかげと感じておられるところのお礼のお届けがございました。
 やはり信心、何にも話は耳に入らない、教えが耳に入らん、苦しい事で一杯だった。
 ところが何かの調子に、「黙って治める」今日の御理解は、私はいつもこの「黙って治める」と言う事ね。「人に悪い顔を見せぬようにしていくのが」と言うように、言うなら黙って治める。生神金光大神様を唱えながら、ところがです最近はその「黙って治める」ということが少し楽しさが出て来たとこう言うのです。
 教えというものは素晴らしいものだ、素晴らしい事になってくるだろうと、八に、それこそ、穂に穂が咲いてというところまでは行っとらんけれども、おかげが見え出した。ありがたい事が体験、本当それが実験だよ、実証だよと言うて昨日は話した事でしたね。

 昨日は朝から大変、もう以前は糖尿病と言うのはこんなに身体がきついものだろうかと言うように、こう手を上げるのもきついというような一日でしたけれども、元気な心でここへ出させて頂くと、昨日は特にお参りも多かったですから、お取次させて頂くときにはもう身体がシャアンとなっておる。言うなら血が入れ替っているのだろうかと思われるようにシャンとなるのです。
 私は八の字にプラスの八と、広がりに広がる、穂に穂が咲いてというような、今年は満作、豊作というようなおかげを頂き続けるためには、只の信心じゃいかん。つういっぱいの信心しとるんじゃなくって、つういっぱい以上の信心が出来なけりゃならない。しかもそれが楽しうなると言うのであり、ありがとうなると言うのである。
 今日はこんなに忙しい事は神様が御承知だからとか、こういう事情のもとにだからこれは神様も今日は許して下さろうとか、と私共は様々な事がありますよね。私は元気な心というのはそれから先だと思うんですよ、辛抱すると言うても同じことですね。
 もう辛抱が出来んというその先が辛抱なんですね。もうこれがギリギリだと、これ以上の辛抱は出来んというその先を私は辛抱だと思うのです。それが私は、穂に穂が咲くというおかげの元になると思うんですよ。これは肉体、身体のうえでもそうですね、もう足を上げるのがおっくうなごとある、きついごたる。もう本当にきつい時はどうにもしようがない程に身体がきつくなってくる。そういう時に一ふんばり神様に心を向けさせて頂くと、いわば不思議な働きが起こって来る。あのきつかったのがどこへ行っただろうかと思う位に、平常と変わらんような身体の状態である。これは昨日の私の体験ですけどもね。
 黙って治めるという事でもですね、黙ってここまではこらえとったけれども、ここはどうでも一口言うとかなと言うところをいわば言わずに治める生き方、身体でもそうです。 きついけどもその向こうにそれこそ一心におすがりして神様に向かって行くと、そこに不思議な働きが起こって来るね。

 私はこれで充分というところには、やはり豊作のおかげだと思うね、見事に出来たと言うて穂に穂が咲くという程しのおかげを頂くのは、それから先を大事にする人の上に頂けるんだ。それであって初めてです、成程神様じゃなあ、成程金光様の御信心じゃなあと言うようなおかげが頂けれる。
もう辛抱が出来ん、その先を大切にする。そういう辛抱力を大変じゅつないごと、そ  この一ふんばり一ふん切りさして頂くとです、その事がもう今度は鞍手から参ったご信者じゃないですけれども、とてもこれが言わずにおられようかというような事でも辛抱する、辛抱するとこういうおかげにもなってくるのだから、それがね、かすかながらでも辛抱するという事が楽しうなってきたというようなおかげにつながってくるんですね。

 今日は、広がりに広がる、只広がるじゃない。
 「穂に穂が咲いて」といったようなね、誰が見ても誰が聞いても成程と合点がいくようなおかげを示さなければ、本当の、本当の繁昌ではないと思うですね。


                           「どうぞ」